プロがやっている“耳のリセット”術とハイエンドなヘッドフォンの真価

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なんだか最近、いつもの音楽が心に響かない。
あるいは、何十万円もするヘッドホンの値札を見て、一体自分たちが聴いている音と何が違うのだろうかと、ふと疑問に思う。

そんな経験はございませんか。

私、篠崎徹は、オーディオ専門誌の編集者として25年、フリーランスとして独立後も、来る日も来る日も「音」と向き合い続けてきました。
今日はそんな稼業のなかで培ってきた、プロだけが知る“聴覚の整え方”と、ともすれば投機対象のようにも見えるハイエンドヘッドフォンの真価について、少しばかりお話しさせていただこうと思います。

この記事を読み終える頃には、あなたが「本当に良い音」と出会うための、ささやかな、しかし確かな羅針盤を手にしているはずです。
技術的な話もいたしますが、最後はいつだって感性の話。
しばし、お付き合いください。

耳のリセット術とは

耳が“狂う”とはどういう状態か

我々プロの現場では、長時間にわたり音を聴き比べた後、感覚が鈍くなることを「耳が狂う」などと表現することがあります。
これは単なる感覚的な言葉ではなく、誰の身にも起こりうる「聴覚疲労」という現象です。

長時間、特に大きな音量でヘッドホンを使い続けると、音を脳に伝える内耳の有毛細胞が疲れてしまい、一時的に特定の音が聞こえにくくなるのです。
なんだか耳が詰まったように感じたり、音がぼやけて聴こえたりする。
それは、あなたの耳が発している正直なサインに他なりません。

篠崎流・耳のメンテナンスルーティン

では、どうすればその「狂い」を元に戻せるのか。
私が何十年も続けている、耳を整えるための習慣がいくつかございます。

  • 1. 深夜1時以降の静寂で試聴する
  • 2. 週に一度、早朝の海で感覚をリセットする(サーフィン)
  • 3. 毎日、豆から挽いた珈琲を淹れる

一見、音とは無関係に見えるかもしれませんが、これらは全て繋がっています。
特に重要なのが、情報から完全に遮断される時間を持つことです。

サーフィンと静寂の試聴——感性を磨く日常習慣

週に一度、私はまだ暗い時間に家を出て、鎌倉の海へ向かいます。
波を待つ間、耳に入るのは風の音と、打ち寄せる波の音だけ。
デジタルな情報から完全に解放され、自然の音に身を委ねることで、聴覚疲労で凝り固まった耳が、ゆっくりと解きほぐされていくのを感じます。

そして、仕事としての試聴は、街が寝静まった深夜1時以降と決めています。
生活騒音が消えた完全な静寂のなかで音と向き合うと、これまで聴こえなかった演奏の細やかなニュアンスや、録音された空間の“空気の湿度”まで感じ取れるようになるのです。

耳を整えることが音を聴き分ける第一歩

「耳のリセット」とは、単に耳を休ませることではありません。
それは、都会の喧騒や情報過多によって鈍ってしまった自らの感覚を、もう一度、生まれたての素直な状態に戻してあげるための儀式なのです。

良い音を聴き分ける第一歩は、高価な機材を揃えることではなく、まず自分自身の聴覚を最高のコンディションに整えることから始まります。

ハイエンドヘッドフォンの世界

「百万円超え」に意味はあるのか?

さて、耳が整ったところで、もう一つの大きな問いにお答えしましょう。
「百万円もするヘッドホンに、本当に意味はあるのか?」という問いです。

結論から申し上げれば、大いに意味はあります。
しかし、それは多くの人が想像する意味とは少し違うかもしれません。

トリクルダウンの理論:高級機が市場全体に与える影響

私は、ヘッドホンの世界には「技術のトリクルダウン」が存在すると考えています。
トリクルダウンとは、富める者が富めば、やがて貧しい者にも富が滴り落ちてくる、という経済理論ですが、これがオーディオの世界にも当てはまるのです。

  1. 【北極星としてのフラッグシップ】
    メーカーは威信をかけ、採算度外視で「百万円超え」のフラッグシップモデルを開発します。これは、彼らにとっての技術的な“北極星”です。
  2. 【新技術・新素材の実験場】
    その開発過程で、ベリリウムのような特殊な振動板素材や、全く新しい構造設計など、革新的な技術が生まれます。
  3. 【技術の滴下】
    数年後、そのフラッグシップ開発で得られた知見や成果は、より現実的な価格帯の、つまり私たちが普段手にする3万円や5万円のモデルに惜しみなく注ぎ込まれます。

百万円のヘッドホンは、それ自体がゴールなのではなく、市場全体の音質を底上げするための、いわば尊い犠牲なのです。
あの“北極星”が存在するからこそ、私たちは手頃な価格で素晴らしい音を享受できる。そう考えています。

篠崎が選ぶ“真の基準機”——HD650の理由

とはいえ、私が新しい製品を評価する際に必ず立ち返る“基準機”は、最新の高級機ではありません。
2003年に発売され、私が15年以上使い続けているゼンハイザーの「HD650」です。

なぜか。
それは、このヘッドホンが特定の性能を突き詰めるのではなく、音楽が持つ「情感」を過不足なく描き出す、普遍的なバランス感覚を備えているからです。
最新鋭機が描き出す高解像度の音に心を奪われた後、ふとHD650に戻ると、「ああ、自分が聴きたかったのは、この音楽の温かみだったな」と我に返ることができる。

私にとってHD650は、道に迷わないための“物差し”であり、変わらない価値を教えてくれる古い友人なのです。

最新フラッグシップモデル試聴レポート

もちろん、最新技術への敬意も忘れてはいけません。
先日もHIFIMANの「SUSVARA UNVEILED」のような百万円クラスのモデルを試聴する機会がありましたが、その音の透明感と、まるで目前で演奏しているかのようなリアリティは、筆舌に尽くしがたいものがありました。
これらの最新鋭機が描き出す音の世界は、間違いなくオーディオの一つの到達点です。

しかし、その凄まじい情報量を前にして、私たちは改めて問われることになります。
「一体、自分はこの音のどこに感動しているのだろうか」と。

一方で、こうした有線ヘッドホンの世界とは別に、ワイヤレスの分野でも技術革新は日進月歩です。
少し前のモデルになりますが、LGがプロの音響ブランドと共同開発したHBSシリーズのような、本格的なサウンドを追求したハイエンド志向のワイヤレスイヤホンも存在し、手軽さと高音質を両立させたいユーザーから注目を集めました。
ジャンルは違えど、音への探求心が生み出した一つの到達点と言えるでしょう。

測定値 vs 感情——どこに“真”の音があるのか

スペック重視の罠と聴覚のリアリティ

周波数特性のグラフ、歪率の低さ——。
カタログに並ぶ魅力的なスペックは、音の良し悪しを判断する一つの指標にはなります。

しかし、それだけを追い求めると、大切なことを見失うことになりかねません。
なぜなら、私たちの耳は、高性能な測定マイクではないからです。

「耳はマイクではない」——Ultrasone工場での原点体験

忘れられない光景があります。
2001年、ドイツのヘッドホンブランド「Ultrasone」の工場を取材した時のことです。
一人の開発者が、私にこう語りかけました。

「いいかね、篠崎。耳はマイクではない。心の一部だ」

彼は、自社のヘッドホンがなぜドライバーユニットを鼓膜の真正面から少しずらして配置しているのか(S-Logic技術)を説明してくれました。
音が直接鼓膜を叩くのではなく、耳介(耳の複雑な形をした部分)で自然に反射することで、まるでスピーカーで聴いているような立体的な音場を生み出すのだと。

あの瞬間、私の信条は固まりました。
測定値の上での正しさよりも、人が聴いてどう感じるか。
いかに心地よく、いかに感動できるか。それこそが「真の音」なのだと。

試聴における環境と時間帯の影響

その「感情」を正しく捉えるためには、聴く環境が決定的に重要です。
私が深夜の静寂にこだわるのは、日中の喧騒がもたらす無意識のストレスから解放され、心と耳が最も無防備で素直な状態になるのを待つためです。

そして、その静寂の中で、私はただひたすらに“音の湿度”を聴き取ろうとします。

“音の湿度”を聴き取る感性の育て方

“音の湿度”とは、私が勝手に使っている言葉ですが、演奏者が込めた情念や、録音されたスタジオの空気の匂い、そういった言葉にならない情報のことです。
カラッとした爽快な音もあれば、梅雨時のように湿り気を帯びた艶やかな音もある。

こうした感性を育てるのに、特別な訓練は必要ありません。
ただ、自分が「心地よい」と感じる音に、もっと注意深く耳を澄ませてみてください。
浅煎りの珈琲の酸味と、ハイレゾ音源の持つ高音域の伸びやかさには、どこか通じるものがあるな、などと妄想しながら。

そうした日常の小さな気づきの積み重ねが、やがてあなただけの「良い音の物差し」を形作っていくのです。

あなたにとっての「正しい音」とは

自分の耳を信じるために必要なこと

ここまで長々とお話ししてきましたが、結局のところ、オーディオの世界に絶対的な「正しい音」というものは存在しません。
あるのは、あなたにとっての「正しい音」だけです。

自分の耳を信じること。
そのために必要なのは、高価な機材でも、専門的な知識でもありません。
必要なのは、ほんの少しの勇気と、自らの感覚をリセットする習慣、そして「基準」となる自分だけの音を見つけることです。

音楽ジャンル別・おすすめヘッドフォン体験

もしあなたが自分の「好き」を見つける旅に出るなら、こんな体験はいかがでしょうか。

  • クラシック音楽が好きなら
    コンサートホールに足を運び、生演奏の響きを全身で浴びてみてください。その記憶を頼りに、開放型のヘッドホンでオーケストラを聴くと、自宅がホールになる体験ができるかもしれません。
  • ジャズが好きなら
    ジャズ喫茶の大きなスピーカーの前で、ベースの胴鳴りやシンバルの煌めきを感じてみてください。その“空気感”を、密閉型のヘッドホンで再現できるか試してみるのです。
  • ロックやポップスが好きなら
    ライブ会場の熱狂を思い出してください。あの心臓を揺さぶるような低音を、現代的なチューニングのヘッドホンがどう表現するか、聴き比べてみるのも一興です。

プロの聴き方を日常に取り入れるには

難しく考える必要はありません。
週に一度、15分でいいのです。
スマートフォンを置いて、お気に入りの一杯を淹れ、ただ音楽のためだけに耳を澄ます時間を作ってみてください。

それが、プロの聴き方を日常に取り入れる、最も簡単で、最も豊かな第一歩です。

まとめ

さて、ずいぶんと長話にお付き合いいただき、ありがとうございました。
最後に、今日の話をまとめておきましょう。

  • 1. 耳を整えることが音を深く聴く第一歩
    良い音と出会う前に、まずは情報から離れ、静寂のなかで自分の耳をリセットする習慣を持ちましょう。
  • 2. ハイエンド機の真価は「感性」によって試される
    高価なヘッドホンは、技術の進化を促し市場全体を豊かにします。しかしその価値を本当に引き出すのは、スペックではなく、あなたの感性です。
  • 3. あなただけの「基準機」を見つける
    最新鋭機を追いかけるのではなく、自分が心から「これだ」と思える音を一つ見つけてください。それが、あなたの揺るぎない物差しになります。

いつだって「音は嘘をつかない」と、私は信じています。
それは、音が作り手の感情や技術を正直に映し出す鏡であると同時に、聴き手であるあなたの、その時々の心の状態をも正直に映し出す鏡だからです。

どうか、あなただけの「真実の音」を見つける旅を、心ゆくまで楽しんでください。